どうだろう、この学校というものの捉え方の差


親にとって兆しが読みとれるだろうから、親にとって突然という事はないだろうという事ですね。つまり子供が行きたくなくなるかどうかとは別の話ですね。*1
そうです。深刻な事態になる前の問題であれば解決へ向けて早期にあたれると考えています。ボクがでしゃばる必要があるかないか、子ども自身で解決させるようなアドバイスの方が良いか、など検討するのにもそれがベストだと考えてます。

1:でもそんな中学高校とかの物想う頃になって親にいちいち学校の事とか話してました?そんな親べったりだったら学校には順応しにくい気もするし、話するならするで、子供だって演技もしますよ。親心配させたくないだろうし。
中学高校で、何も改まって学校について問われることは無かったですよ。hateneさんは親と会話することを「親べったり」とマイナスイメージをお持ちのようなので言い換えさせて頂きますが、家に居るときの普通の会話の中で、自然に学校の話題が出てくる程度のことと解釈してください。子どもの年齢に合わせて会話するのは当たり前の話です。いつまでも子ども扱いはしないつもりです。
子どもが演技するのは親がいい年した子に自主性を無視して何事か要求するからだと思います。心配かけさせたくない気持ちを利用した調教みたいなものです。

なぜ最近の学校が(あるいはどこのいつを指しておっしゃっているのかわかりませんが)落ちこぼれに対して学校や仲間が門戸を閉じるような風潮だと言えるのでしょうか?
hateneさんが協調性と学習能力を競い高める場所だからこそ、その能力において落ちこぼれたと感じる人間にとって行きづらいのが当然でしょう。と確信していらっしゃっているからです。落ちこぼれたと感じさせるような学校はあって当然な時代なのでしょう、hateneさんが考えている学校は。ひどいですね。

2:あと、大前提として無条件に「仲間」というものが居るかのように書いていらっしゃいますが、仲間というのはそんなに何もしなくても誰でも獲得できるようなもんでしょうか。
そこで疑問を持ちますか。
親友という意味での仲間は偶然性も重なるところがあるので無条件というわけにもいかないでしょうね。ボクが言いたいのは、学年単位でも学級単位でも班単位でも部活動でもなんでもいいのですが、自分の所属するグループのことです。それは仲間じゃないと考えているのかな。であれば仲間じゃなくて、そういうグループで考えてください。
というかhateneさんのところではそういうグループで仲間意識が芽生えたりしないんでしょうね、やはり時代の違いか…。

私が「よい羊」と書いたのは、その時点(id:ryuryusese:20040225#1077635743に書かれている学校時代)でのryuryuseseさんについて書いただけであって、生まれつきどうこうは関係ないですよ。学校がコンビニでツレとたむろするような場所だったという状況が「順応できていた」という事でしょう?
あなたはそれを「学校を楽しく過ごす方法」だと思っているかもしれませんが、それは「うまくやれてた」という「結果」に過ぎないと言ってるんです。「劣等生なりにほどほどに」やっていたとおっしゃりたいのかもしれませんが、「従順な子羊」だったのじゃないですかと言っているんです。
学校へ行きたくない人には何か必ず理由があるはずとボクは考えているのであり、、従順は関係ないと言っているのです。羊に喩えられるほど学校に統率を強いられて居なかったからです。
しかしながら、再三にわたって、学校へ行きたくないとは思わなかった人を、なんであわれで弱く頼りないという意味の「子羊」に喩えますか。ひょっとしてボクだけをバカにしたかっただけなのでしょうか。まあそれはそれで結構なんですけどもね。バカなのは間違いないのですから。