選別という一面。


教師も普通の人間だから、簡単に試験問題が作成できないといけない。また、誰かにとって選別が有利にならないよう、中立的な試験問題や学習内容にならなければならない。そのために、学校で勉強する内容は、役に立たないものになる。極端に言うと、役に立たないものでなければならない。
結果的に教育が社会的地位の選別をしているという一面を取り上げているのだけれども、飛び級などを認めていない日本には別の意味もあったのではと思います。
それは労働力の均一化、一定の品質を保障する労働力の確保です。
労働力の流動化が激しくなっている昨今、多分野にわたって知的労働力が必要となり、また先鋭化、専門化も求められているのですから、義務教育が終わってからの教育には柔軟な対応を迫られている時期に来ています。
ところで、勉強する内容は意味があろうと無かろうとさして問題にならないというのはボクも別の意味で同意したいと思うのです。嫌々でも学習し目的を達成するという、我慢や忍耐の学習というのは社会に出てから学んでも身につきにくいですからね。
従って、教育の選別という目的はピラミッド構造の上部にのみ当てはまり、その中間層や底辺においては我慢や忍耐の目的で「役に立たないこと」を勉強していると述べることも出来るかもしれません。
「本当にダメな奴が何をやってもダメ」だと思うのは、いきなりエリートが受ける恩恵に預かろうとするところにあるのではないか、などと、多方面からお怒りを頂戴するような文言で〆。