お酒を飲みたい。煙草を吸いたい。

親がやっていることだから子どもも間違いなく興味を持つ。
言葉で理解させるにもしょせん子どもの好奇心の前では歯が立たないだろう。
とりあえず酒も煙草もおいしそうに飲むつもりだ。大人の特権というものを見せ付けるつもりでいる。つまりは「大人だけが楽しめるもの」という認識を早いうちからさせるのだ。疑問を持つ前に「そういうものだ」と思わせる。そもそも「20歳から」などという根拠が親にもわからないのだから、そういうものだと思ってくれなくては困るのだ。
小さいうちは煙草も酒も子どもの手の届くところへ絶対に置かないよう努力しなければならない。探してまでヤりたいわけではないのだから、好奇心を刺激させるような場所に置くような真似だけは避けねばならない。もし見つけてヤってしまったら責任は自分にあると考えねばならない。それでも子どもが驚くほど叱りつけるだろうけれど。
とにかく二十歳になるまでは親の前では絶対に吸わせないつもりでいる。中途半端な年頃に隠れてヤってて見つけたら張り倒して許しを請うまで味噌蔵に閉じ込めご飯を食べさせないつもりだ。(そういえば最近虐待で逮捕された親が居たな…)
それでも子どもはある程度の年になれば二十歳前だろうと吸うのだろう。事実自分もそうだったし、リアルチャッピーもそうだった。
所詮カエルの子はカエルなのだ。平気でウソをつき、平気で親を心配させるに違いない。

コントロール

ニーツオルグが嫌がってた親のコントロール。演技。
本を読んで実践する教育的指導が親に対して従順な子にさせるためのものだと思われたらと思うと考えさせられる。ゾッとする。最初の障壁、目標であり最初の支えであるボクに裏切られる絶望、そんなものを生まれてくる子に感じさせるわけにはいかない。でもコントロールはしなければならない。それは父親になるはずのボクが父親になるための努力をしたことがないからだ。その努力不足とは父とは何ぞ知ることではなく子にとって都合の良い父になることではなく人間としてどう生きているかということだ。信念に近いそれを提示せずして子がそれを目標にしたり対抗にしたり出来ようか。子どもにいずれ対等な立場いやそれ以上の期待を込めつつもどこかに自分の子は死ぬまで俺に追いついて欲しくないという動物みたいな性がある。そんなことを考えてるときには最早とっくに自分の手元から去っているのが普通だけれどもアレはイケないコレもイケない後は知らん俺もナァナァで生きてきたから勝手にしろと突き放した結果じゃあ死にますと言われたときにひきつったボクの顔を見て初めて笑顔を見せるような子にしないためにも必要なのはコントロールすることなのだ。そう、父となる自分を。
とかなんとか今考えたってどうしようもないことを龍成がベラベラしゃべってました。
ここだけの話、龍成はリアルチャッピーに「どうせ私を怒り役にして自分は慰め役に回るつもりでしょ。」と図星をつかれて焦ってます。