コントロール

ニーツオルグが嫌がってた親のコントロール。演技。
本を読んで実践する教育的指導が親に対して従順な子にさせるためのものだと思われたらと思うと考えさせられる。ゾッとする。最初の障壁、目標であり最初の支えであるボクに裏切られる絶望、そんなものを生まれてくる子に感じさせるわけにはいかない。でもコントロールはしなければならない。それは父親になるはずのボクが父親になるための努力をしたことがないからだ。その努力不足とは父とは何ぞ知ることではなく子にとって都合の良い父になることではなく人間としてどう生きているかということだ。信念に近いそれを提示せずして子がそれを目標にしたり対抗にしたり出来ようか。子どもにいずれ対等な立場いやそれ以上の期待を込めつつもどこかに自分の子は死ぬまで俺に追いついて欲しくないという動物みたいな性がある。そんなことを考えてるときには最早とっくに自分の手元から去っているのが普通だけれどもアレはイケないコレもイケない後は知らん俺もナァナァで生きてきたから勝手にしろと突き放した結果じゃあ死にますと言われたときにひきつったボクの顔を見て初めて笑顔を見せるような子にしないためにも必要なのはコントロールすることなのだ。そう、父となる自分を。
とかなんとか今考えたってどうしようもないことを龍成がベラベラしゃべってました。
ここだけの話、龍成はリアルチャッピーに「どうせ私を怒り役にして自分は慰め役に回るつもりでしょ。」と図星をつかれて焦ってます。